3歳からピアノ、4歳からヴァイオリンを始める。幼い頃から集団生活が苦手だったため、マンツーマンの音楽教室が適していたようで、休まず継続。大勢の観客の前でたった一人で演奏という経験を積む。
ブランドマネージャー DAILY&GUIDE
音楽と私
思えば、4歳の私が縁あって個人レッスンを受けたのは当時80歳越えの男性。
よくもまあ、2人っきりで30分のレッスンが持ったものだと今は思う。
後から聞いて、音楽の教育分野では名士だったらしい。
「そんな先生に習えて幸せだね。」と言われたし、今は心からそう思っている。
母から後々聞かされたのだけれど、戦争で奥さんや子供、家財をすべて失ったご経験があると聞いた。
その後、また新しい家族を作られ、音楽の教育にも邁進されていた。
私はたった4歳で真の人格者から音楽を通じて
人としての在り方を教えてもらっていたと思う。
学校の先生はどの人も本当に苦手で「なんてつまらない人だろう」とずっと思っていた。
だから、通知表に「いつもぼんやり外を眺めておられます」なんて書かれてばっかり。
困り果てた母に「なんで外ばっかり見てるの?」と言われて
「時間が余ってるから」と子供らしからぬことを言って
もう本当に母には申し訳ないなあと今では思う。先生には一ミリも申し訳ないとは思わない。
今思えば、私は対等に接してくれる人についていったんだと思う。
中学校入学と同時に学校の部活動でオーケストラに入る。集団でありながら、個の技術や表現を常に磨く環境、そして勝ち負けにこだわらなくても「演奏できる」という喜びだけで継続していくことを体感する。
6年間、部活に捧げ、高校2年の時はコンミスを務めた経験もあり、特に未練もなく楽器演奏をやめる。
その後、「弾けなくなるのが怖い」という錯覚にとらわれ、ピアノやヴァイオリンの個人レッスンを始めるも、表現するという目的を見失い、先生の言っていることも単なる「間違い探し」に思えることばかりで続かず。楽器は放置。
「手放そうかな?」
と思った時、小さくて10年以上開けもしなかったヴァイオリンのケースがやたら存在感を増してきた。
「目ざわりだな。売ってやろうかな。」
検索しても、売り方が分からない。捨てる?別にお金にならなくてもいいけど…。
突然京都のバスの中で中高時代のオーケストラの恩師に会う。
先生は私がオーケストラでコンミスをしていたこともよく覚えていた。
お、ちょうどいいや。
「先生、私あれから楽器は弾いていなくて。もったいないから、学校に寄贈させていただくことはできますか?」
捨てるには罪悪感があっても「寄付」ならなんだか良いことした気になるし、楽器にとっても良いだろう。
という私の最高にがめつい考え→今となっては。
先生は「その楽器は受け取れませんよ」
えー。
あげるって言ってるのに!めんどくさいな。
その後、ピアノの調律の人が家に来る。
「ヴァイオリンを引き取ってくれる人知りませんか?」
「引き取ってくれる、ということならいくらでもご紹介できます。」
ああ、じゃあそうしようかな。
「…これ、そんなに場所とっていないのに、そんなに邪魔なんでしょうか(笑)」
10年以上開けずに放っておいたもの、そんな邪魔なわけないじゃないか。
「来年、気持ちがお変わりなかったら、考えられたらどうでしょうか」
またもや、面倒くさい!!!
もう!と思いながら、「楽器 修理 引き取り」とかめちゃくちゃなワードで検索する。
色々ネットサーフィンしていてぶつかったのが、
地元のオーケストラのサイトの新団員募集のページ。
今思えば、「楽器を手放したい人集まれ」とか「修理できなくて困っているあなた」とか
一言も書いてないのに、どうやってそこに行ったのか(笑)
そして、私の音楽人生の第二章が始まる。
ちなみに、ヴァイオリンは物質として存在するものの中では
一番の宝物として存在している。
人生って摩訶不思議。